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私の結婚
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晩婚同士、 一つの目的をめざした私たちの結婚
晩婚同士
木村孝(染色家)
一九五九年六月、新郎四十三才銀行員、新婦三十八才染色家、どちらも初婚。これが私たちの結婚、まだ一年生である。しかし、このように、ある年齢に達してからの結婚はなにか安らかさがあるようだ。ごく自然に相手の立場を理解することができる。すこしは世の中のこともわかり、必要以上のジェラシーもない、よけいなマサツもない。若い人達と違って、淡々として、それぞれの仕事をたいせつにしている。職業はまるで違っているが、社会の大きい流れに対する批判は、共感をもって語ゆ合うことができるようである。父は、私の二十才ころから縁談のあるたびに、「縁のもんどすよってなあ」と至極のんびり、強いすすめもせず、あわてず、私をながめていてくれた。むしろ「あせって、やり直しするような結婚をするより、自分をつくれ」と言っていた。これは私にとってありがたい親心だった。そのころ、日本の健全な男性は戦場にいた。二十四才のときに終戦、食料の次に求められたのは色彩のある衣料だった。この時代を私はわが家の染工場で男の子のように働いた。染色が好きで、おもしろくて、一生けんめいに打ち込んでしまって、自分の年齢を忘れていた。創作する仕事は忙しいと、ざびしがっているひまもない。陽気なたちで、いろいろのお友だちもある。しゃべったりさわいだりする男友だちもある。その中に、仕事の上で壁に突きあたるときもあった。ふだんから私は独身主義ですといったことはない。ただ結婚について、どう思うかと言われたりすると、京都流に返事の代りに笑っていた。この笑いが誤解されたことがあるかもしれないと思っている。また、経済力があれば女は一人で生きることもできるでしょう、などと云われると、返事をするのがいやになった。私は子どものときからあらゆるおけいこごとをさせられた。それらはお嫁入りのための女の芸ごとである。やっぱり、私は女らしく生きたかった。物質が目的で生活するためなら、こんな染色という、はてしもなくきびしい修業の道を、父もすすめなかっただろう。美しい色彩を生むのが楽しくて、それにすこしばかり夢中になりすぎただけである。「同じような職業はいや。語り合って共鳴することのできる人なら」とわがままばかり言ったものである。ニューヨークで出逢った人から、帰国一年後に手紙がきた。この年齢の独身者同士は結婚という話題から身を守ろうとするものらしい。トラブルをおこすまいと、外地の社交はすきをみせないのである。思いがけなくプロポーズされて、若い娘のように迷った。私は良妻賢母になる自信がなかった。けれど、いまこの人の地味で、誠実な愛情にはげまされて、仕事と家庭の両立という難問題にとりくんでいるところです。
一つの目的をめざした私たちの結婚
浪江虔(農山漁村文化協会理事)
「農村生活を目指してともに準備することニ年余、ここに私たちは結婚の式をあげることとなりました・・」これは私たちの結婚通知の最初の一文である。半封建的土地制度のもとで当時の農民は苦しみぬいていた。その手かせ足かせを、なんとしてでも農民自身の力でもぎとらせよう、そのために生涯をささげようと決心していた私は、結婚に関してもこの根本方針をつらぬき通すことしか考えなかった。信頼できる紹介者の家で初対面したとき、私は自分の経歴と、思い定めた根本方針とを、るるのべたてて、時の移るのも知らなかった。二日半にわたる「見合い」は、このようにして行なわれた。ニカ月後には、私は東京府立園芸学校、婚約者は水原産婆学校の生徒になっていた。農村定着の準備である。どちらももう二十六才で、級生の大部分は、五つも七つも若かった。こうして私たちは、昭和十三年七月に結婚し、十四年一月に鶴川村に住みついた。四年前から準備していた農村図書館をその年の九月に開くことができた。しかし私の計画の本筋は、実行に着手すべくもない有様だった。完全な戦時体制をとっていた政府は、土地制度改革の運動を、それがどんな穏健な方法であっても、黙認するはずはなかったのである。戦後、日本社会全体も、農村社会も、かなりかわった。民主化の仕事は今なお大きく残ってはいるが、以前のように悲壮な決意で取りくんでむしろ適切でない。活動のしかたも多面性が要求され、かえってむずかしくなった面もある。私たちの結婚生活は、いまも、この基本線の上を歩みつづけている。もちろん、何から何まで意見が一致しているわけではないし、互いにいろいろと不満を感ずることもあるが、共通の人生目的というものが結婚生活の最も根本的な土台であるという、当初の考え方まで修正する必要は、なさそうである。浪江氏夫妻は、一〇年目ごとに\"結婚記念のつどい\"を開き、先輩、友人たちに結婚生活の報告をしています。昭和三十三年には、結婚二〇周年記念のつどいをされました。
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